プロゴルファー『合田 洋』公式ブログ
北海道 十勝清水


『あすなろファーミング』


その牛乳を一口、口に含んだ瞬間、思わずパッケージの成分表に眼をうつしてしまった。

きっと誰もが、同じ行為に及ぶのではなかろうか。

 それは、我々が子供のころから慣れ親しんできた“牛乳”とは、全く異質のものだったからである。

 

 健康志向に促されて、昨今ではオーガニックだの、無農薬、有機栽培といった、まぁ、身体に良さそうなフレコミを看板にしている食品が氾濫をしている。

決して悪い傾向ではない。それくらい世間には、怪しげな添加物にまみれた食品が多いのである。

正直この牛乳だって、そういった“健康志向の一種”くらいにしか考えてはいなかった。いわゆる「成分無調整」なのだろうし、酪農業者を指定してあったりする低温殺菌牛乳ってとこなのだろう。もちろん、そんなフレコミの牛乳は世間一般にそれこそ溢れていて、そこらへんのスーパーに行ったって、簡単に手に入れることが出来る。これまでもそんな風に、色々な牛乳を飲んだし味わってもきた。

そもそも、我々日本人も世界中の人々の例に洩れず、だいたいの人が幼いころから牛乳に親しんでいる。牛乳に及ばず、ヨーグルトだったりチーズやバターだったり、大袈裟に言えば乳製品の恩恵にあずからずして、日々を過ごしている人は皆無だろう。

それほど生活に密着した飲料や食品でもあるわけだから、当然の如く、その“味”も味わい尽くしていると思っていた。


 では、どんな牛乳が美味しいのか? 雑誌やネットで、搾りたて“らしい”牛乳を飲んだ人の記事を見ることもあるが、やはり「濃厚で美味しい」というコメントが多い。しかし、スーパーや有名デパートなどで売られている美味しい牛乳の代名詞・濃厚牛乳と銘打つ商品に、「成分無調整」の五文字が見つけられなかったりするのが少し不思議だ。

それはともあれ、使い古された言葉かもしれないが、やっぱり私には濃厚な牛乳が美味しいという認識が厳然としてあった。

 

しかしこの牛乳は、少なくとも「濃厚」ではなかった。表現すれば、口中に含んだ瞬間に「身体が欲しがる」牛乳だったのである。

 

 なんという口当たりか。私は思わず眼をつむり、口に含んだ牛乳を喉の奥へと流しこんだ。

澄んだ空気にサラサラと牧草が揺れている風景が、まぶたの裏を静かに通過していく。遠い昔、山の渓谷で見た、木漏れ陽から弾け飛んでいた光が、脳裏にコダマしたかのようでもあった

こんなに“爽やかな飲み物”があるのか? 口中には、ほのかに草の香りが残っている。

そして残りを一気に飲み干した。

すると、この牛乳たるや、呆れることに、たちまち身体にゆき渡ってしまったが如く、腹中に、その存在を示す重量感がない。

あの「牛乳を飲んだあとに特有」の、“お腹がやや重くなる感じ”がまるで無かったのである。

まさに、サラリといった口当たりと吸収感が印象的で、この味を単に「美味い!」と表現してしまうことが失礼にさえ思えたのである。

 

 

 そんな不思議な牛乳と出会ったあと、私は、北海道は帯広の地で開催される道東オープンに出場するため、北の大地へと降り立ったのだ。帯広から十勝清水は眼と鼻の先。十勝清水には、この牛乳の故郷、『あすなろファーミング』がある。

どんな日本人が、こんな牛乳を作ったのだろう? 気がつくと私の運転する車は、帯広の広大な畑を縫うようにして、一路、十勝清水を目指していた。




 
Posted by : 合田洋 | 記事 | 09:45 | - | - | - | - |
侍プロゴルファー 〜 バックナンバー

ここのところ多忙で、ブログまで手が回らなかったというのが実情である。


兼本と私は、はっきり言って馬が合わない。
普段より言葉を交わさないのは元より、たまさかに会話をしても、恐らくだが、お互いに不愉快な後味に辟易すること頻りという感がある。
正直なところを申し上げれば、私のなかでは 嫌いな人間 のひとりだ。
しかし兼本は、ことゴルフに於いては確かに 侍の魂 を持ったプレーヤーである。
この記事を書いたころの兼本は、シードを行ったり来たりしているプレーヤーで、もちろんツアー優勝には無縁というプレーヤーだった。
頑張ってはいるが、下馬評には、知らず知らずのうちに消え行く選手の一人と数えられていたかもしれない。
しかし今は御存知の通り、ツアー優勝を遂げているどころか、プロゴルフツアーを牽引していくべきプレーヤーへと成長を遂げている。
まぁ私としては大嫌いな人間なのだが、兼本は疑いなく 侍 だということで、この記事を書いた。


かたや伸洋は、誰にでも好かれる賢い人間だ。
気取らない性格で、どんな場面でも節度を忘れない。鼻につくところがないのだ。
プロゴルファーも一流を自負するようになれば得てして、ひとりの人間としての人格という部分に問題が発生してしまうケースはある。
だがそれは時に、誤解もある。
すべては、かかる人物の 徳 という部分に帰属していると言えばそれまでなのだが、突き詰めてゆけば、つまらない評判を立てたい人間は、どんな人物に対しても悪評を立てようとする。
どんな世界にあっても、そういった評判に振り回されて、悩む人も多いのではないだろうか。
そういったクレーム好きな人間は、何に対しても一所懸命になって、問題点や粗を探し、その部分を論じる自分に嬉々としているものだ。見れば、人の悪口を論じたてるとき、まるで甘い蜜を啜っているかのような恍惚とした表情が、その事実を物語っている。
悪口を言うことが、自分の頭の良さを証明するような錯覚に陥っているかのようにも見える。
だが伸洋には、そんな低俗な世俗の蜜には無縁な、いわゆる何かを感じるのである。
伸洋は、そんな 漢 だと思ってもらえば分かり易いのかもしれない。


亨とも、ときどき練習ラウンドを共にした。
私は練習ラウンドをする時間がいつも早かったので、中島(常幸)さんが練習をしに試合会場に現われるまえに、ハーフだけ、というスパンで私の組にたびたび入って来たのである。
学生の頃から有名で、中島さんやマッシーちゃん(倉本昌弘)を筆頭とした、プロゴルファーのなかでもエリート街道を歩んできた亨。高校を卒業してゴルフ場に研修生として入り、キャディをしながらプロになった私とは、土台の作りが違うゴルファーである。
だが亨は、「合田さんの人間味が面白い」と言って、よく私を喜ばせてくれた。その明け透けの無い亨の人柄を、私も好ましく思っている。
アマチュアのかたにとっては少し変な話かもしれないが、実は、プロゴルファーというやつには、「試合のときに凄いやつ」と「普段のゴルフのほうが凄いやつ」というのがいる。
大体どちらかのほうが凄かったりするものなのだが、亨の場合、両方のゴルフに隔てなく 凄さ を感じさせる、まぁ珍しいやつのひとりだということは間違いがない。
亨とノブさん(湯原信光)の人物には似た匂いがある。
ゴルフのエリート街道を歩んで来たプレーヤーにも関わらず、どんな人に対しても決して偏見を持たないのである。






 『瀬戸の槍竜』  兼本貴司


両耳をつんざく破壊音と共に、中空を切り裂いてゆく鋭い槍(やり)は、
遥かフェアウェイのド真ん中に轟音をたてて突き刺さる。
フェアウェイを飄々(ひょうひょう)と歩き、
その、フェアウェイに突き刺さった槍を引き抜くや否や、
細い躯(からだ)を鞭(むち)の様にしならせて、
再び、グリーンの旗竿を目掛け、颯爽(さっそう)と投げ放つ。
兼本のプレーは人々に、そんなイメージを彷彿させることだろう。

両手をポケットにしまい込み、
フェアウェイを将に飄々と歩く細い躯は、
瀬戸内海は因島(いんのしま)に生を受けた兼本貴司に他ならない。

ゴルフコースでは、独特の雰囲気を醸し出す、一見謎の人物ではある。
しかし、そんな兼本のプレーに侍の精神(こころ)”を見出す人は多いだろう。

長尺パターと 切れ味鋭いショット を武器に、
【瀬戸内の竜】=兼本は、
風を縫い、雲間を掻き分けて、己の高みを目指し続ける。





壱拾四 猛牛】 … かしわのもうぎゅう

 『柏の猛牛』 … 増田伸洋


世界で
「最も荒々しい紳士のスポーツ」と云われる“ラグビー”で鍛えし増田の躯(からだ)には、
闘魂と礼節からなる熱い血潮が駆け巡っている。

好機が訪れるや否や“抜群の突進力”で
バーディやイーグルを積み重ねてゆく増田のプレーは…
【猛牛の突進】にも似た、ラグビーの“カウンターアタック”を彷彿させる。

「技能」と「瞬発力」を併せ持つ “パワープレー” が増田の持ち味だ。

物静か?…かと思えば、爆笑の渦の中心に居る。
悩んでいる?…かと思えば、全てを楽観する。
馬鹿か?…と思えば、その思考論理は極めて理知的なのである。
ラガーマンの誇りを持つ増田は、様々な内面を持つ非常に“面白い人物”であり、
良識にも富んだ“魅力あるスポーツマン”だ。

とてつもないスーパープレーを、
サラッとヤッてのける増田の爽快なゴルフに、ギャラリーの拍手が鳴り止むことはない。

 

 


『美濃の獅子丸』 … 鈴木 亨


『才能』と『自覚』という部分に於いて、
己の乏しい才能を「優れている」と勘違いする人間は数多くいるが…
こと、鈴木亨という武者には、それは全く逆の現象をみてとれる。

鈴木亨が、凄い才能に恵まれた人物であることは周知の事実なのに、である。

その“飛距離”また“きめ細やかなプレーぶり”…どれをとっても超一流!。
 “下半身の安定感” は、日本ツアー随一と云えるだろう。

その、プレーの安定感は【獲物を捕らえる獅子】の如くあるが、
それを自覚する能力には些かなりとも乏しいのが、鈴木亨なのである。

加賀の巨砲・川岸良兼と、
将に“両雄”とも称せる才能を持った美濃の獅子丸が、
確固たる自信を胸に
「完全優勝を遂げる姿を見てみたい」と懇願しているのは、私だけでは無い筈だ。

吠えろ!亨!
『謙虚な気持ちを忘れない“自信”』こそが、真の自信であることを知れぃ・・・喝!。






 
Posted by : 合田洋 | 記事 | 09:05 | - | - | - | - |
家族を考える  奇妙なやつ
 
雪が降った。今年の初雪だ。
どうやら、ちまたは寒気に包まれている。

寒い日に欠かせないのは何と言っても 風呂 である。
冷えた身体を湯船にうめると、まさに生き返ったような心地になる。
昨晩の風呂は更に格別で、指先に血液が循環していく感覚に、一日の疲れが吹き飛ぶような気がしたのは、私だけではなかったはずだ。
しっかりと身体を温めてから、脱衣所で濡れた身体を拭く。
そのとき思いを馳せるのは 晩酌 に他ならない。
寒い晩の薩摩焼酎の湯割りは、風呂と同様に、また格別なのである。

おや!?

足元に何かが動いた。
何か 妙なものが、私の脹脛を撫でていったのである。
ふと足下に眼を移すが、そこには何もいない・・・おかしいな?
不思議な感覚だったが、そこは気を取り直して、拭きあげた身体に寝巻きを纏い、火照った身体を冷やすが如く冷たい廊下でストレッチをする。
これは私の毎日の日課だ。

あれ!?

またしても、脛を何かが撫でる。
薄暗い廊下にたたずむのは、むろん私しかいない。

ふむ・・・。確かに不思議な感触ではあるが、決して嫌な感じではない。
スルリとすり抜けるようにして私の脛を撫でていくが、それに邪悪な気配はなく、ましてやザラつくような敵意を持ったものの仕業でもない。
それは、やさしい「温かさ」を持っている。

見ると今度は そいつ がいた。
私を見上げている。
今年になってから そいつ は我が家にいるんだったな。
そう。存在を忘れてしまうほど、家の中で そいつ に出会わないのだ。
我が家を棲家と定めてからの そいつ は、和室や階段、二階の本棚のうえ、居間の炬燵のなかや義父の布団のなかなどに蹲っている。
ときどき、あらぬ方向から声を掛けられてビックリする。
まったく気配を感じさせないやつだ。
ひょっとすると、自分の存在に気づいていない私を驚かすために、わざわざ気配を消してから声を掛けるというのだろうか・・・
まったく奇妙な生き物である。


おもむろに私は そいつ を抱き上げた。
すると、新品の弦楽器を奏でたような綺麗な声で、私に呼びかけてくる。

なんとも可愛い ♪





名前は 『ちゃみ』 
昨年11月に亡くなった義母が可愛がっていた猫である。
義父が我が家に引っ越して来たときに伴ってきたのだ。
君も立派な我が家の家族である。

猫を飼うのは初めてなのだが、これほど可愛いとは思いもしなかった。
なにより 【自由に生きている風】 が好い。
勝手に我が家を棲家と定め、勝手に屋内を徘徊し、勝手に飯を喰う。

居間への出入りも、勝手に自ら戸を開けて行っている。
ただ問題は、開けた戸を閉めることはしない。


――お母さん!ちゃみが、ちゃんと戸を閉めるようにはならないのかな?

――怖いこと言わないで!戸を閉める猫は、化け猫だって言うんだから!



なるほど。なっとくだ(笑)





Posted by : 合田洋 | 記事 | 09:30 | - | - | - | - |
家族を考える◆/掲を迎えて

我が家で恒例にしている行事のひとつに、家族全員で初日の出を見にいくというのがある。
まぁ、ここまで聞いただけでは余りにありきたりな話だが、そこは私の家族ということで、体育会系一家ならではの趣向はちゃんと施してある。
やはり何かしないとつまらない。

 それは・・・ 走る のである。

日の出の時間に合わせて、町の高台に鎮座する寺まで走り、山門を潜った正面に控えし石段を駆けあがってから、河の向こうに上昇する初日の出を家族全員で拝するというのが、我が家の年頭の行事というわけである。




この町に住み始めてから既に20年のときが経った。
当初、私ひとりの行事であった『ランニング初日の出参り』は、いづれ長男が加わるようになり、そして長女が加わり、数年前からは次女と次男も加わって、風の凍る街なかを5人で駆け抜けるようになった。
2年前には、途中でヘバった次男を、長男がおぶって走ったよなぁ。
自分のトレーニングにもなるから、と嫌がるどころかニッコリと笑って、己の弟を背に乗せて揚々と疾駆した。父親である私が、その揺れる長男坊の横顔にどんな気持ちを抱いたかは言わずとも知れていよう。

さて今年の初日の出も、その来光は力強く、寒気に凍った街をたちまちのうちに溶かしていった。今年も良い年だ。
その陽光に赤く照らされた子供達の笑顔をみて、私は思う。
明るく健やかであれ と。
そして、自分の目標に忠実に生きていけば良いのである。

ちなみに我が女房は、ひとり車で温々とやって来る(笑)



今年も宜しく!・・・m(__)m


※我が家の新家族・爺ちゃんは、喪中ということで留守番をしておりました。






Posted by : 合田洋 | 記事 | 15:30 | - | - | - | - |
鍋の旨さ
 

寒さが次第に厳しくなる頃、鍋物の旨さを思い出す。

鳥ガラの旨みと塩気が程よく浸み込んだ白菜の芯が最高で、白い湯気に煙る鍋をつつきながら、人肌を越えた熱めの燗酒をチビチビとやる。

五臓六腑にしみわたる熱燗の熱が、胃の腑を刺激して、食欲はさらに増進する。冬の醍醐味は何と言っても鍋物に尽きる。

この「鍋物」。
だし汁も様々だし、魚の鍋であったり鶏鍋であったり、豚鍋もあれば牛鍋もあるが、思うに鍋物というのは、鍋の中に処狭しと鎮座する菜類の味わいに他ならない。
鍋料理は、菜類を最も理想的なスタイルで食せるバランス食だ。


そんな鍋料理ではあるが、実は小生、この鍋料理に限っては自宅で食するのが一番好きなのである。


魚が嫌いな人は肉類を具材に選べば良いし、豚や牛が嫌いな人は鶏や魚を選べば良い。
しかし、鍋物に入るべき菜類を選べる店というのが殆どない。
実際には肉や魚が嫌いという人よりこの野菜が嫌いという人の方が多いにも関わらずなのである。
お店でだされる鍋の中の、決まりきった菜類の顔ぶれにも辟易する。
これが、小生が鍋物だけは自宅で食すのを最も好むという一番の理由だ。

殊に、師走の忙繁期には、旨いと評判の店ほど、既に煮上がった鍋を客卓に寄越す傾向にあって、鍋を味わう以前に不愉快な気分を味わいながら、我慢を重ねて一切れ一切れの食材を口に運んだ御人も多いはずだ。


ところがアジア諸国の殆どの鍋料理は、往々にして、鍋に入れる食材の全てをメニューから選び注文をする。
例えば、香菜が嫌いな人はべつに注文しなければ好いだけだ。
ぷりぷりとした肉団子に空芯菜の味は格別で、タイガービールの喉越しに少し辛目の出し汁が良く合う。
程よく香る香菜と五香粉が鼻をくすぐる。
台湾やタイで食す鍋物には、日本にはない趣きがある。
店は、出し汁に合った菜類を用意して、客のスタイルに対して適応しようと苦心をする。
その、アジア諸国の鍋物は、明日への活力を与えてくれる力の源
と言っても、決して過言などではないだろう。


この『押し付けがましさが微塵もない』というのが味の基本なのである。
日本で鍋物を敢えて注文しない小生も、アジアの地では可成り積極的に鍋を食すのである。

 


食すタイミングを逸し、既に“ごった煮”と化した鍋物には、繊細な趣きや、それぞれの具材が醸し出す味のハーモニーなども皆無であり、もちろん香り立つ店舗の雰囲気を楽しむことも難しい。
そんな「日本の鍋物」には小生、どうしても魅力を感じきれないというのが実感にある。

 





 

Posted by : 合田洋 | 記事 | 20:20 | - | - | - | - |
Pingジャパン 


シード選手時代の最後のときを、Pingのクラブと共に戦ったということでなのか、私は今でもPingのクラブが好きである。
それは、PINGのクラブが “良き戦友” だったからだ。

いっぱしのゴルファーであると自負する人なら、『Ping』というメーカーを知らない人はいない。
このカーステン=ソルハイム博士の創始したゴルフクラブメーカーは、世界的に極めて良好な評価を受けている。もちろん製作されるクラブは、たくさんの良い面を持っている。
もっとも良いところは、ほとんど全てのクラブが、「使う人に合ったものを作る」というコンセプトのもとに製作が為されるという点である。
ゆえになのか、ピンのアイアンは、バックフェースに装着するバランスキットによってヘッドの重量調整を行う。だから、スウィングバランスの要望にも、完璧な0.1ポイント刻みの調整さえ可能となる。

私は昔から、ことクラブについては “うるさい気質” だ。
これまで色々なメーカーと用品契約を結んできたが、とりわけ「うるさいプロ」だと敬遠するメーカークラフトマンも多かったのも事実にある。
しかし、そんな私の要望にも、PING社のクラフトマンは見事に応えてきた。
クラブの長さやシャフトの種類、ユーザーのあらゆる要望に応える “用意” があるという点では、恐らく、PING社を凌駕するメーカーは無い。

ただし、そのフィッティングを旨とするという事由から、PINGのクラブは購入後ユーザーの手に届くのが若干遅い。
それはユーザーの体格を計ったり、個人のヘッドスピードなどに基づいたクラブを製作するからなのだが、これが日本人の製品購入感覚にはイマイチ合わないようである。
私も日本人だから分かるのだが、確かに、新しいクラブはすぐに使いたいし打ちたい気分はよく分かる。
しかしどうだろう・・・考えようによっては、「出来上がりを待つ楽しみ」 もあるということを忘れてはならない。新車を購入したとき、その車が自宅に到着するまでのワクワク感を思い出してみるとよく分かる。


私は逆に、ピンのクラブが持つ世界的に人気がある理由の最たるものに、この 「手元に来るまでのワクワク感」 が世界的に支持されているとさえ思っている。






Posted by : 合田洋 | 記事 | 19:30 | - | - | - | - |
故郷を考える


私はその小川を知っている。
たぶん、かつて山で「わさび」を探した時にでも探りあてたか、幼少のみぎり祖母と来た時に見たのか。何故か記憶の片隅にではあるが「竹藪の小川」のことはハッキリと覚えている。

その小川はチョロチョロと、しかし暗い薮のハズれでは少し急角度に銅山川へと水を進めていた。翠の苔が生した岩なども記憶しているが、どうだろう? 全体的には土の上を這う、子供でもまたげるような可愛い感じの小川だった。
祖母と「茗荷(みょうが)」を採った時にも見たかもしれない。

 

もう何年も前になるが、ツアーを回っている途中、墓参りをしに故郷に寄った。それは花粉の影響で私の喉が潰れているときだった。

家に着くと叔母が、「婆ちゃんは神社のしたの竹薮で茗荷を採んりょるよ」と言う。すぐさま畦道を神社へと走った。
果たして神社から川のほうを見下ろすと、そこに祖母はいた。
だが声を掛けても私だとは一向に気付いて貰えない。それほどのダミ声になっていたのだ。
しかし私は寧ろそれを面白く思い、そのまま他人の振りをして祖母の茗荷採りを勝手に手伝うことにした。

とは言え早く気づいて欲しい気持ちはあった。
だから祖母にはたびたび声をかけるのだが、終始背中を向けたまま迷惑そうだ。こちらさえ向かせることが出来れば、たちまちのうちに祖母は笑顔になること請け合いなのである。

だが祖母は、誰とも判らない「男」に、せっかく採った茗荷を盗まれるとでも思ったのか、男の顔を見ようともせずに、怒った風情で「何処ぞのモンか知らんきんど手伝いやかいらんきん」と、とかく邪魔にされたのを憶えている。

 




あるとき、小川がコンクリートで固められしまった。

何時だったか、町に住む伯父(オイヤン)と散歩をしたとき、オイヤンがぽつりと「洋よ・・・人はのぅ、便利便利ばかり言うて大事なモノを自分から失くしていく生き物なんじゃ」と、そのコンクリートで固められた小川を見て言った。

人は生き物でありながら、自ら “生き物の棲めない環境” を作っていくということを、オイヤンは嘆いていたのである。

オイヤンは山に住む者の不便さを知っている。だから町に住む自分には何も言う資格が無いとも言っていた。その伯父の言葉に私が、確かな真理を感じたのは言うまでもない。



町に住む者が山(田舎)に対して、無責任な 『環境保護』 を訴えるのは、オイヤンの言うようにエゴイスティックなモノの考え方だ。

しかし彼の言葉どおり、自然環境の破壊というスパイラルが結局は人間自身が招くであろう破滅への道であることも疑いの無い事実だと感じてしまう。

否、私が感じる以上に既に重大な問題として、人間のイデアやアストラルに濃い陰を落とし始めているのかもしれない。

 

山の小さな竹林が、川のせせらぎが、我々に与えてくれる(与えてくれた)恵みは物質的なモノだけでは無い。深いカルマに常から悩む “人” という生き物の、アストラルの世界の原点だと言っても決して過言ではないのである。

小さな竹林の小さな小川に流れる水、しずやかな風に揺らぐ陽の輝きも、確かな手応えとして生命に息吹を吹き込んでくれているのだ。





 

Posted by : 合田洋 | 記事 | 17:17 | - | - | - | - |
今年の賞金王
 
いよいよゴルフツアーも今年の最終戦・日本シリーズを残すばかりだ。
しかしカシオワールドの最終日を終えて、勇太(池田)と石川君への期待をよそに、キム・キョンテ君の独走態勢という雰囲気はどうしても否めない。
久々に外国人賞金王が誕生するのだろう・・・デビット(イシイ)さん、以来じゃないのかな?

男女共に、韓国人選手に水をあけられている雰囲気の日本陣営だが、では日本人シード選手が下手糞なのかというと、そんなことは全くないという小生の見解はある。
しかし、ではなぜ日本人選手=日本人シード選手が、こうもパッとしないように見えてしまうのだろうか? という疑問は残ってしまう。

それでは、先週のカシオワールド最終日を思い起こしてみよう。
少なくともメディアやゴルフファンの雰囲気は、勇太の優勝シーンを、石川君の大逆転を、そういった試合運びを期待する余りか、結局、松村とキム・ドフン君のプレーオフは些かなりともドッちらけムードに満ちた展開で、TV解説をする加瀬さんにも、「(さて、どうフォローしようか・・・)」とも取れる少々苦しい解説内容がそこここに見えていた。

はっきり言って、つまらない試合だった。

優勝した松村は、今年初勝利を挙げた今期に2つ目の勝利を勝ち取った選手にも関わらず、なぜか新星誕生のムードは皆無だし、キム・ドフン君に至っては、プレーオフ3ホール目の2ndショットをシャンクでもしたのか、黒潮で100回以上プレーしたアマチュアのお父さんが 「あのホールでのOBは一度もやったことがない」 と言うような有り得ないOBを打って、しかも優勝パットをコンシードし、松村がウイニングパットを打たずして優勝という、松村の優勝に見事な枯花を添えてしまった。

何より面白くなかったのは、試合のなかで、優勝争いを繰り広げる選手の人間模様を感じることがなかったことだろう。見どころが無かったのだ。

優勝の最前線にいる選手ならではの “ゲーム運び” も無ければ、優勝への “登頂感” にも乏しかったのである。全てが、その場だけのプレーだった。あとに残ったのは、勇太の自分のゴルフに不貞腐れてしまった雰囲気と、石川君の遅すぎたチャージへの勿体無さばかりで、キム・ドフン君の優勝を逃した悔しさを通した感動なども希薄だったためなのか、試合そのものが不完全燃焼で終わったような感覚が白けたムードに拍車をかけた。
TV中継を見終わって、プロゴルファーの小生でも、妙な不快感を感じたのは事実だ。

ようするに、選手個人に “切迫感” がないのが昨今の試合なのである。
これは、選手の “意識” の問題で、ツアーを主催するツアー機構は、そういう舞台をこそ選手に用意する必要があるのだ。ツアー機構がスター選手を育てようと思っている以上、それは絶対に起こらない。

断言しよう。


40位シード制を敷くべし。
たったこれだけで、日本人選手の意識は激変するのである。





Posted by : 合田洋 | 記事 | 15:15 | - | - | - | - |
家族を考える 

私は4人の子供を持つ父親である。

来年2月に18歳を迎える長男を筆頭に、高校1年生と中学2年生の娘、そして4人目は小学校6年生の次男。正直言って、非常に厳しい親父だとは思うが、不思議なことに家族仲は良好だ。
私にとって「自慢の家族」なのだが、何より我が家は夫婦仲が良い。
子供達にさえ、よく言われるのが「本当に仲がいいね」という半ば “呆れ” も混じった言葉だから、その仲の良さは推して知るべしである。
だが何のことはない。
我々夫婦が日々行っていることは、お互いを理解すべき会話を絶やさないことだけだ。
女房と知り合ったのは、ともに18歳のとき。つまり、もう30年にも及ぶ “付き合い” になる。
それにも関わらず夫婦喧嘩はおろか、子供達のまえで「言い合い」すら無く、子供達が認める仲の良い夫婦であるのは、何のことはない、二人とも自分の感覚を押し付けるでもなく、どちらかが我慢するでもなく、ただ、会話によって互いを理解し得たからに過ぎない。
これからも二人で貧乏を乗り越えながら、末永く仲の良い夫婦でありたいと願っている。

今月12日、その女房の母親がまったく突然に亡くなった。
女房の両親は、我が家から車で5分ほどのところに住んでいるのだが、12日の早朝、義父(爺ちゃん)から電話があり、女房が駆けつけると、既に義母は息をしておらず、その心臓は鼓動するを停止していたという。
その朝はいつもの朝で、いつものように老夫婦は朝餉の支度に勤しんでいた。ひと部屋あけた廊下の物入れの前で何かをしていた義母が、小さな音をたてて倒れたという。
それっきりだったのだ。
少し血圧が高いくらいで、特別何の疾患も抱えてなかった義母が、こんなかたちで亡くなるとは思いもよらなかった。「いいひと」という言葉は、まさに義母のためにあるような言葉という人で、彼女がこんなタイミングで亡くなるとは思いもよらなかったのである。

婆ちゃん、さようなら……ただただ冥福を祈るばかりだ。


葬儀の一切が済んだ今も、我が家は少々ならず騒々しい。残された義父(爺ちゃん)を我が家に迎える準備に追われているのだ。
義母の49日があければ、我が家に家族が一人増える。



Posted by : 合田洋 | 記事 | 08:30 | - | - | - | - |
中国から帰って参りました。


 太平洋クラブ・益子コースで開催された来年のツアー出場権をかけた試合・QT 3rdを落選した小生だったが、
結果としてファイナルステージに進めなかったという事実に対しての反省や余韻を感じる暇もなく、
今月2日早朝に羽田空港を発ち、
日本のメディアでは尖閣諸島の問題に揺れに揺れていると報じられること頻りである中国へと飛んだのである。

場所は首都・北京。

 日本の人が、ただ聞けば、何やら 「決死行」 のようなイメージすら湧く昨今の訪中だが、
いざ行ってみれば、それは どこ吹く風 の風情で、
尖閣問題が勃発するまえ何らと変わらない中国は、我々をニコやかに迎えてくれたように感じた。
 滞在は十日間。険悪なムードは何処にも無かった。
今回は中国人の生徒さんのキャンセルなどもなく、今年最後の訪中ということもあってか、
ことに週末は、山崎さんと二人で行うには少々ハードぎみの生徒数を熟したという次第である。

 毎度毎度のことなのだが、海外で仕事をしたり試合に出向くたび、
日本人の感性というか感覚というか、ことを細かく言えば、根本的な思想的道徳感などに、
残念な部分を感じざるを得ない、ときがある。
 若年のころよりアジアを始め、ヨーロッパ、アメリカ、オセアニアなどを
ゴルフをプレーするという仕事(目的)で巡ったのだが、と同時に、
それぞれの国で様々な人々の御世話になってきた小生である。
そんななか実は度々、日本人であることが恥ずかしくなる質問やコメントを頂戴することがあった。

 長年の総評として、結論を端的に言えば、海外を旅するなかで各国の人々に接するとき、日本人を好きだとか日本に興味があると言う人の多くは 大正時代以前の日本の姿であり日本人古来の生活や思想のイメージを持っているように感じてはいたのだ。
 少なくとも、昨今の日本や日本人に対して、ハッキリと興味があると応える人は少ないと感じるし、
逆に、奇妙な民族であり、奇怪な道徳感を持った、人ではない人に映っているように感じていた。

 『自由』 という言葉を完全に履き違えた人々・・・・

 日本人が人として瓦解してゆくというか、正直、人として終わりかけている感じをすら
感じてしまうのは小生だけなのだろうか。
道徳感? なのか? 確かに何かが完全に欠落しているのである。

 外国人に外国で接するとき、彼らと会話をするときなどに、ようは我が祖国・日本の在り方に疑問を持ってしまうのだが、
 実は、最も そういう感覚に苛まれる瞬間 というのがある。

 それは、外国で、海外で活躍する日本人に接したときだ。
同じ日本人でありながら、彼らの眼をみながら、彼らと会話を重ねていけばいくほど、
海外に住まう日本人に接すれば接するほど、
日本に住んでいる日本人に対して哀しい感情が吹き出てしまうのである。




Posted by : 合田洋 | 記事 | 09:30 | - | - | - | - |
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